忘備録

MAD?

忘備録

精神病への崇拝。

精神を犯された人間は、そうでない人間より尊い特別な人間だという流行りにヘイトしながらも、根拠を問われたら答えるのが難しいことがあった。苦しみの中にいること、それは地上の人間らが色彩豊かな景色の中で様々な種類の物語を話し合うのを、藍色の深海から冷たくなって眺めること、と。大海は知らぬが、海の深さは知っている、と。しかしながら私はこれらの感覚に精神病という名を与えるのは不正解だと、それは近頃、私なりに辿りついた考え。

 

精神病と聞けば、神経の衰弱さと、慈悲の心を連想させ、贅沢な考え方には孤高なようなものと言い換えてくれる。しかしそれには何かが足りないように思われる。精神病は医学、それはつまり科学的なもの。私たちはあまりにも感情論で心の深さを語ってはいないだろうか。

 

精神病は、脳の疾患と言ってもよいほどである。精神薬は、脳内分泌液の足し算と引き算をしている。

 

精神病の人々を、私は二度の入院を経て、見て思うこと、それは精神病とは脳の病気と非常によく似ているという点である。それはつまり、薬で治るということである。藍色の深海を知る人々が、精神病だという崇拝には終止符を打ちたい。

 

心臓病患者の中で治る人間、治りにくい人間。その両者の違いはどこかと問うたら、それは深海を知っている人間なのか、それとも大海を知ってる人間なのか。

精神病の病名を与えられた人間の中で治る人間、治りにくい人間。その両者の違いはどこかと問うたら、それは深海を知っている人間なのか、それとも大海を知っている人間なのか。

 

貴方は、貴女は、精神病だから悲しみの美しさを知っている人間なのねと心休めてしまうのは夢物語に過ぎない。

 

生きづらさの鍵を、そのように名前のついた精神論にに委ね、託すことも肌に身につけるが、しかしかながらそれに少しばかりの、又は大きな、違和感を思うのであれば、貴方の、貴女の、肌に合うものはそれだけでない。自身の本質を、自身の目によって、見つけていく旅をまた始めてもよいということである。