忘備録

MAD?

6/1 2022

六月に入った。

自分なりに、ひとつずつ、またひとつ、と、そうしてまたひとつ、次のひとつ…と、やってきたつもりだけれど、それをして、辿り着いた先というのは先天的なものだけを生かしてくれる場のように思い、複雑に苦しく、文章を綴る。

 

苦しい身の人にはその人と似た人が集い、そうして振り返り、あの頃の可愛らしいあやまち、として心に留める。それは大人の風習のようだけれども、私はそれの逆を思う。

それは全くもって可愛らしくはなく、それこそが本当だと言いたい。

近しい昔の人々がほんとうにゆっくりと離れてゆくことそれは、後天的に、何枚も何枚も積み重ねた、すぐに破けてしまう柔らかな紙が剥がれ落ちていってしまうようなもの。わたしすらも消えてしまうようなもの。

それはあまりにも屈辱的で、そうして、悲しいこと。

 

薄い和紙や、ベールのように繊細な人々が、後天的な苦しさによって創り上げなくてはならなくなったそれぞれの作品と触れることがもう無いのかと考えてしまうと、わたしはもう、生物学的に正しく生きてゆく一本の糸が掴めずして迷い子となる。

 

細い糸というのはどうしてもこうも惹かれる。清らかで涼しげなあれら、どこへ、どこへ、と幼子が服の裾を引っ張って聞くような純粋さでそれを問い、問われる心になる。

 

風に揺れる草花は、都会で生き残ってゆくことが難しい。そこで消えるのが一番好きだというのなら、そうすればいい。それが本願だ。それだけは純粋でよい。清らかであればあるほどいい。失われそうなそれを守るには、また、いちから、作品を創り上げてゆくほかないのだ。都会のそれで消えてしまったのであれば、また、ひたむきにしてゆくこと。わたしはそれしか知らない。それしか知りたくない。それしか知らなくていい。わたしは死ぬまでこうなのだと思えば、それこそが救いとなると。

 

いつかまた消えてしまうこれは、一枚にも至らないだろうことだけを感じ取る。