忘備録

MAD?

せめて綴ることくらいさせてくれ。

 

目に見える弱者を見ては、羨ましいと思う。

人は完璧に出来ておらず、無意識下に、本能的に、美しいものや正しそうなものを優位だと思い易くできているのだろうか。できているのだろう。目に見える弱者はそれにヤられているけれど、それのお陰で政府や福祉に救われている。けれど目に見えぬ弱者は政府や福祉には助けてもらえない。税金を納めていれば、何も言われない。勤め先が官公庁なら、何も批判することはない。収入源が明確ならば、何も規制することはない。

身なりがしっかりとしていれば、育ちが良さそうに思われる。ある程度の教養があれば、大学中退でも批判されない。ある程度の学力のある大学であれば、それはたとえ中退であろうと面接で嫌な顔はされない。言葉遣いが柔らかければ、誰も私を、少なくとも表では批判しない。そんな 1+1=2 のような簡単な二極化で社会は成立しているのだとしたら、私の考えてきた事柄や経験は全てモラトリアムの内に納め、外部からは絵に書いたように幸福に見える教育環境のなかで浴びるしかなかった苦しみは、忘れていい。そういうことになるのだろうか。

同じ家庭環境で育った弟は、立派に成長している。父の弱さを少ない言葉だけで鋭く批判し、父を実際に泣かせる。母の無責任さを、社会的な言葉で括り付ける。弟は立派だ。学級委員もした、バスケ部の部長も、生徒会も、バレンタインのチョコレートの数だって幼稚園の頃からほぼ水平に保っている。弟は小さい頃から、世界に旅に出たいだとか、とりあえず男の自由を求めるところがあった。どこの国に行きたいのかは知らない。弟が中学生の頃、スーパーでイワシを買ってきて、きちんと三枚下ろしをし、つみれのお吸い物を作った。ブルーカラーとホワイトカラーの現実を知り、壁を殴り、穴を開けた。夏に見つけた、車の下にいた死にそうな子猫を、飼いたいと何かの使命に駆られたかのように言った。自分は猫に好きも嫌いもないが、この猫だけは特別だと言わんばかりに、適度な距離を保ち、自分の恋人のように愛でた、今も。私の弟は立派に育っている。その姉も立派に育っている。ある程度の学力のある大学を病気で否応なしに中退したが、どんな時でも身なりには気を遣い、ある程度の教養があり、であるから人はその姉に厳しい言葉を使わないけれどそれに過剰に乗る事のない厳粛さを持つよう心がけ生活した。人を批判しなければならない時はなるべく柔らかい言葉で批判し、自分が悪くなくとも相手に深い傷をつけてしまった時は謝罪することを覚えた。せめて綴ることくらいさせてくれ。私は、モラトリアムと呼ばれるであろうそのような事を、決して青春のそれだなどとは思わない。それは私のアイデンティティの小さな芽。花が咲くにも関わらず、その芽が一生懸命、芽を出す度、もぎとられる。もぎとるにはあんまりに容易なほどに柔らかい芽の茎を。嘲笑されるのは物心ついた頃から家庭内において十分、頂きました。もう入りません。お腹がいっぱいなのです。せめて、綴ることくらいさせてください。体に合わぬ食べ物の味を、もう口にする事のないよう、忘れることはしたくないと。どこへ行っても変わって見えるのは最初だけで、金や名誉や容姿など、それの切符にしか過ぎず、後に残るのは、その芽だと。せめて、綴ることくらいさせてください。その芽をただ、もぎとられない場所に置いておきたいと。私は、そのために日々、小さく小さく頑張っています、と。今、この瞬間も頑張っています、と。